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Key Points to Keep in Mind When Selecting Washi (Japanese Paper)
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    原料に気をつける

    本来、“和紙”という言葉は日本産の靭皮繊維を用い、日本国内で作られた紙を意味しますが、近年では外国産の輸入原料や非靭皮繊維を使用した紙も和紙として一般的に流通しています。期待値以下の耐久性や急速なシミなどの劣化症状の...

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    使用されている薬品に気をつける

    和紙を選ぶ際に、製紙工程で使用されている薬品と使用量、および最終的な紙のpH値等の情報が、和紙の品質を見極めるのに参考になります。和紙の原料から不溶性の不純物を除去する際にアルカリ性の溶液を使用する必要がありますが、....

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    乾燥方法に気をつける

    和紙は漉いた後に、余分な水分を除去する為に乾燥させる必要がありますが、その乾燥方法にはいくつか種類があります。この乾燥方法の違いによって、和紙の品質が左右されます。和紙の選定の際に、乾燥方法の違いの考慮も大切です。

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    手漉きと機械抄きの違いを知る

    和紙の作り方には、昔ながらの人為による手漉きの製法と、機械抄きの製法とがあります。一般的に高価で上質とされるのは手漉きの和紙ですが、機械抄きにも常に均一の品質を提供出来るなどのメリットがあります。用途によって、...

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Story of MORIKI Paper

森木ペーパーの歩み
Story of Moriki Paper

森木ペーパーの歩み
Story of Moriki Paper



創業一族である森木家は、長らく高知県伊野町で紙漉きを行う和紙の生産者だった。土佐典具帖紙の開発を始め、数々の和紙生産技術を改革した郷土の偉人である吉井源太の代表的な弟子の一人が、創業者である森木安美の叔父にあたる 久松林之助であった。当時は幕末の動乱期であり土佐藩は財政に苦しんでいたが、吉井源太とその弟子たちの働きにより「土佐和紙」が一大産業として発展し、地域の財政を建て直すきっかけになった。

現在の森木ペーパーの前身である「森木紙店」は、1925年(大正14年)に横浜で創業。創業した人物は、明治36年に高知県の伊野町に生まれた森木安美、現在の3代目社長である森木貴男の大叔父にあたる人物である。

安美は紙漉きを生業とする家庭に生まれ、幼少期から実家の仕事を手伝い、冬場には大人たちにまじって水仕事を夜遅くまでやるなど、生産者としての苦労を一通り体験した。

しかし、訳あって実家の和紙工房は廃業してしまい、地元の土佐紙株式会社に入社。横浜の配属となり、当時、日本を代表する貿易港であった横浜で外国人相手に商談をするなど、その身をもって貿易の現場を体験した。当時の横浜は日本の表玄関であり、和紙は日本の主力産業として大量に輸出されていた。


その後、会社の手漉き和紙部門の廃止に伴い独立を決意。しかし、支那事変が起こると貿易の風当たりは強くなり和紙の輸出は皆無となった。間もなく太平洋戦争が勃発、戦時中は軍需用品を製造することが優先され、和紙の産地では風船爆弾が作られるなど、和紙をはじめとする伝統工芸品は必要とされる機会がほとんどなかった。戦後赴任先のフィリピンから戻り、ようやく和紙の輸出業社として再出発を切った安美は、以前の取引先や知人経由でのルートを探り、各商社に和紙の「見本帳」を配布した。すると、海外からの注文が次々と舞い込んだ。


海外の人々は上質な和紙を求めており、安美は高知や岐阜、島根など全国をまわり、紙すきに熟達した各地の職人たちを訪ねては協力をあおぎ、ふたたび大々的に和紙を輸出する仕組みを整えた。

この頃から、輸出の窓口を一国一店にすることで過度な価格競争を避けながら「森木紙店」は諸外国の代理店から信頼を得るようになり、販路も拡大していった。以後、日本各地の様々な和紙が海を渡っていくことになる。

1974年創業者の安美から事業を直接引き継いだのは、安美の甥であり、現在の代表である貴男の父伸二だった。初代の時代から海外交流は盛んに行われていたが、取引に関してはあくまでも為替の問題などから国内商社を通してのやり取りが多かった。そのような状況から一歩前進し、二代目の伸二の時代から、アメリカとは1979年、西ドイツとは1983年に直接取引を開始し、欧米への輸出がさらに本格化した。

国内の商社やブローカーを通じた取引から、諸外国との直接のコミュニケーションに。越前や土佐などの産地の和紙組合とも連携し、海外で紙漉き実演会の開催や展示会への参加を増やしていく一方で、海外からのお客様を紙漉きの産地に案内するなど、積極的に行うようになった。

1990年代に入ると、輸出向け和紙は新たなる問題に直面していた。関係者に欧米各国の和紙の事情を聞いたところ、元々流通していた和紙と同じ名前で本来の紙より質の低いものが、市場に出回っているという。さらには東南アジアで生産された紙も和紙として販売されているものもあると聞き危機感を抱いた。また、1990年台後半には欧米で長年のパートナーだった会社が大企業に買収されたり、オーナーが変わるなど、和紙の海外の市場が大きく変わった時期でもあった。このような現状を目の当たりにした貴男は、それまで勤めていた会社を辞め2000年に会社に加わり、顧客が望む上質な和紙をふたたび供給することを使命として全国の和紙を知り尽くした父と共に諸外国に積極的に赴き、一層の情報交換を行うようになり、やがてオーストラリアやシンガポール、マレーシアなどにも販売パートナーを増やしていった。

父の伸二から貴男が事業を引き継ぎ、三代目の代表となったのは2008年のことだった。

その年の6月にカナダ・トロントで開催された「世界和紙サミット」は、森木ペーパーの北米パートナーであるJPP(The Japanese Paper Place)が企画した大々的なイベントであった。日本から三人の若い紙すき職人と共に現地に出向き和紙制作の実演はもちろん、1か月以上にわたり市内約30箇所以上のギャラリーで一斉に和紙を使ったアート作品が展示され、市内の美術館や博物館、図書館、美術大学などで様々な和紙関連のレクチャーやワークショップも開催された。様々なジャンルの企業やアーティスト、修復家、クラフト作家など、日ごろ和紙を利用している人々と生産者(手すき職人)が交流する貴重な機会となった。

会社設立当初から取引の中心は欧米だったが、この頃から更にベトナム、インド、インドネシアなどのアジア各国や中東へと販路が広がっていく。同時に、海外パートナーとの展示会出展や、文化財保存修復学会などに定期的に参加し、最終ユーザーの声を直接聞くために版画・製本などの工房や美術品などの修復工房への訪問の頻度も増やしていった。また国内の産地にも積極的に出掛け、工房の様子を伺うと共に、海外のユーザーの意見を伝えている。

2014年には、石州半紙、本美濃紙、細川紙の3つの伝統的な手すき和紙の製法がユネスコの無形文化遺産に登録され、和紙本来の価値が改めて世界的に大きく注目を集めるきっかけとなった。日本全国にはこの3つの和紙以外にも、それぞれの風土を生かした素晴らしい手すき和紙を作るところがまだ全国に100軒以上あると言われている。しかし、こうした地域の特性を持つ数多くの和紙が存続していくためには、全国の和紙産地で、地域産業として和紙づくりが残っていかなくてはならない、貴男は常にそう考えていた。

森木ペーパーの輸出の相手先は世界30か国を越えた。それを可能にしたのは、まさに言葉や文化の違いを乗り越えて、本当の意味で和紙の作り手と使い手とを繋いでいるからに違いない。和紙に対する強い思いは創業当時から今も変わらず受け継がれ、次なる時代へと続いていく。

取材・文:村式株式会社

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